小説を書くことによって背負う「3つの罪」

小説を書くことは「罪」です。

これを自覚するかしないかで、作品に対する書き手の姿勢が大きく変わってきます。

「罪」といえるであろう3つの項目について、順にご紹介します。

「ウソつき」になる

小説には、ウソの内容が含まれています。

作家や作品ごとに程度の差はあるものの、本人が直面したありのままの出来事だけを書く小説家は少ないのではないでしょうか。

一説によると、「ウソをつく罪を自分自身でかぶらないよう、ペンネームで出版するようになった」とも言われているくらいです。

たとえ「ノンフィクション」として書かれた小説でも、安心はできません。

ある出来事をネガティブに書いたとしても、とらえ方を変えればポジティブに解釈できるという状況は間々あることです。

このように、物事の見方や伝え方は人によって変わるのです。

また、物語にすることによって、多少なりとも「脚色」は起こります。

小説において、脚色を防ぎながら客観性や公平性を保つというのは至難の業です。

「ありのままの真実を伝えることが目的であれば小説である必要もない」という意見も出てくるでしょう。

ウソや脚色を省いて書くとなると、不可能ではないにしろ、やはりなかなか難しいことです。

こうした原理的ともいえる前提があるため、「小説を書くことは罪」といえるのです。

それを理解した上でどのような態度をとるかは、書き手次第です。

事実を伝えるべく努力するのも自由ですし、開き直ってウソをつき続けるのも自由です。

それぞれがもつ、小説家としての哲学にそって判断しましょう。

「神」になる

小説家は「神」、そして「創造主」なので、作品のなかではなんでもアリです。

登場人物をひどい目に合わせることはもちろん、その気になれば殺してしまうことだって可能です。

書き手は、創造主であることの「罪」をしっかりと自覚しなければならないのです。

道義的・倫理的な問題とは別に(もちろんそれも大切ですが)、これは小説の出来に関わってきます。

書き手が暴走すると、内容のつじつまが合わなくなったり、急な展開に読み手を置き去りにしたりと、収拾がつかなくなりがちです。

それを防ぐためにも、創造主である自分に浸るのではく、物語や登場人物をリスペクトする姿勢が大切です。

その上で内容を尊重するのか、やりたい放題やるのかは、書き手が決めることです。

「影響を与える人」になる

いわゆる、”インフルエンサー”ですね。

ただし書いた小説がベストセラーになって、その後の市場や出版界、文壇に多大な影響を……

というような話をしているわけではありません。

小説を読む前と読んだあと。

読み手の心には、何かしらの動きが生じます。

「他人の心に入り込む」ということは「罪」の要素が含まれます。

しかし、これにはいくつかの解釈があります。

あるときには、小説に書かれている内容が読み手のトラウマになってしまうこともあります。

この場合、小説を媒介として、精神を汚染してしまう有害物質を放出したことになりますね。(それを求める読み手も多いのですが……)

またあるときには、小説が「救い」となり、読み手の人生に欠かせない要素となる場合だって考えられます。

作用したという事実は共通しているものの、こちらの場合はポジティブな意味合いが含まれますね。

このように、小説にはさまざまな感情を生み出す機能があります。

書き手はそれを自覚して、どのような影響を与えるかを考えながら執筆する必要があるのです。

最後に

この記事に書かれた内容が、「おもしろい小説を書くために絶対に必要なこと」ではないのかもしれません。

ましてや「罪」というネガティブな言葉を使っている以上、小説家が皆犯罪者であるかのようなレッテルを貼るつもりはないにしろ、反発もあるでしょう。

全体を通して共通しているのは「自覚した後、どうするか」であり、これがもっとも重要なことなのです。

もちろん、その先を判断するのはほかの誰でもない、あなたなのです。

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