書き手が与えた意味を超えていく
今回は、作品の評価について考えていきましょう。
「世の中に開いていく」ということは、かんたんにいえば読み手の目に入るということです。
すると、良くも悪くも評価されることになりますね。
その評価は、単純に「おもしろいかどうか」だけでありません。
次に挙げるように、具体性をもって批評されることもあるでしょう。
「これは○○をテーマにした作品だ」「この作品では○○が描かれている」
このように作品を評価してもらえる書き手は、読み手に恵まれているといえます。
大半が「理解されない」や「読み取ってくれない」といった場合が多いのにもかかわらず、なんらかのかたちで「一定の見解」を示してくれているのですから。
ただし、その見解が書き手が与えた意味と合致しているとは限りません。
「読み手の見解にある “○○” が、書き手としては “そのつもりがなかった内容” だった」
作品が世の中に開いていった結果として、このような現象は起こり得るのです。
読み手の批評に説得力があるかどうかは別ですが、書き手はこれをネガティブに捉える必要はありません。
もちろん誤解や誤読によって、本当の意味で不本意な捉え方をされることもあるでしょう。
それとは別に、物語を書いた本人ではそのつもりがなくとも、読み手が言語化した内容に納得してしまうことがあります。
いわば、書き手が与えた意味を超えていく状況が起きるのです。
具体的には、読み手に「これは○○のようだ」といわれ、書き手からしても「たしかにそう見える(思える)」ような状況ですね。
● 書き手 ⇒ 日常にある青春恋愛物語
● 読み手 ⇒ 世界の創生を描いた壮大な物語
いざ検証してみると、たしかに共通点があったり、「そう読める」と思える箇所があったりと、書き手としてもその解釈に説得力を感じられるわけです。
作品に与えた意味を超えて読まれるということは、書き手にとっては刺激的な体験であり、大きなカタルシスのひとつでもあります。
なかには、この現象を見据えながら創作する書き手もいるようですね。
どこかに含みをもたせ、あえて詳しく書かないことで、なにかを匂わせる。
いわば「大風呂敷を広げる」ように物語を構築して、足りない部分を読み手に補完させるような書き方です。
その是非について言及するつもりはありませんが、そこに「相互性」があることは間違いありません。
読み手の意見との接し方や、作品を通じてとるコミュニケーションの方法として、参考にしましょう。
■ 参考
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