「小説言葉」にこだわらない
小説を書くときにだけ使う、独特な表現があります。
どこからか「小説専用の言葉」が沸きあがってくる現象に、覚えのある書き手も多いのではないでしょうか。
ここではそれを、“小説言葉” と呼ぶことにします。
次に挙げる例で、一般的な表現と比較してみましょう。
例
A. 高層ビルが見えた。
B. ビルは高く宙に突き刺さっていた。
Aの文は、自然に伝わる表現で書かれていますね。
それに対してBは、普段使わない表現で書かれています。
これこそが、小説言葉です。
実際のところ、世に出ている作品を読んでみると、Bのような表現に出会うことがあります。
それを受けてなのか、小説を書くときには小説言葉を積極的に使いたがる書き手が多いのです。
度々お伝えしていますが、書き手がその表現を「作品にとって必要不可欠」と判断するのであれば、いくら使っても問題ありません。
トレーニングの一環として考えれば、「既存の文章を模倣する」ことも決して悪いアプローチではありません。
ただし、小説言葉が「小説らしさを装うための口実」になってしまうのは避けるべきです。
抽象的な話にはなってしまいますが、もう一度「小説らしさ」について考えてみましょう。
これは言語化することが難しく、答えが出にくいテーマです。
しかしながら、少なくとも「小説言葉で装った文章」から小説らしさを見出すことはできません。
つまり、小説言葉をもって量産されるのは、「小説らしい何か」にしかすぎないのです。
そこに注力したり、こだわったりする書き方は、創作文章の本質とはいえません。
「小説言葉を使わないと小説らしくない」と思っている書き手は、手元にある作品を読み返してみましょう。
どこかに必ず、「くだけた表現」や「わかりやすい表現」が使われているはずです。
むしろ、小説言葉を見つけることのほうが難しいのではないでしょうか。
「小説らしさ」とは、表層で規定されるものではありません。
無理をして、それらしい言葉を使う必要はないのです。
小説言葉にとらわれることなく、自分らしい言葉で執筆してみましょう。
■ 参考
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