論理的な説明にこだわらない
世の中にはさまざまな作品が存在します。
読み手に迎合するようにわかりやすく書いた物語や、おもしろさに特化した物語も数多くあります。
一方で、壮大なテーマを扱うことを目的としていたり、作品に文化的な価値をもたらすように書かれた作品もあります。
今回は後者のような作品、有り体にいえば「純文学」を書くために必要とされる心がまえをご紹介します。
美術館に足を運ぶと、必ずといっていいほど”わかりづらい作品”に出会います。
そうなると、作品の主旨やアーティストの意図を理解するべく、言葉での説明を求めたくなりますね。
しかしながら、言葉でもってその意味をはっきりさせることは本来無粋であり、無意味なことです。
なぜなら、言葉で説明できた瞬間に、その作品がもつ芸術らしさが薄れてしまうからです。
「言葉で説明できない何か」を表現するからこそ、そこに芸術としての価値が認められるわけです。
言葉で説明されたからといって、作品に含まれる本質的な意味を読みとることはできません。
作品から浮き出てくる「言葉で説明できない何か」を受信できたとき、はじめて作品の奥行きが理解できるのです。
創作にも同じことがいえます。
書き手には、小説として表現したいことや読み手に伝えたいことがあるはずです。
論理的な説明によって「何か」を立証することができれば、それは多くの人に納得してもらえるかもしれません。
しかし、そもそも論理的な説明がかんたんに実現してしまうテーマや内容を、物語として描く必要があるのでしょうか。
小説は物語であり、論文ではありません。
書き手がやるべきは、作中で「何か」を必死に説明することではないはずです。
もちろん、書き手なりの意味や真意、ロジックや結論をもっておくのはけっこうです。
読み手にわかってもらうため、創意工夫することも必要でしょう。
しかし、伝えるべき「何か」は、物語から浮かぶものであるはずです。
だからこそ、小説というかたちで伝えなければならない必然性がそこに見出せるのです。
「作品理解」とは、受け手の感性や教養、態度や姿勢によるところが少なくありません。
受信できるアンテナの向きはそれぞれの分野によっても変わってくるため、直感的な認識に差がでてしまうのも致し方ないでしょう。
書き手は、そのような読み手に伝わらないことを恐れ、過度に説明する必要はありません。
言語化しながら説明するのは “評論する立場の人間”がこなすべき仕事であり、創作に励む書き手はこだわらなくても良いのです。
言葉で説明できない何か。
小説でしか伝えられないものが、どこかに必ずあるはずです。
作品から浮き出てくるそれを見据えながら、テーマや設定を練り、物語を書き紡いでいきましょう。
■ 参考
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