一点豪華主義に気をつける
一人称小説は、「作文のような何か」になってしまうことがあります。
ひとりの人物が、ひとりの世界に入り込んで、そこで感じたことや思ったことを垂れ流す。
これはこれでおもしろいこともあるのですが、小説として考えると少し残念に思います。
なぜなら、小説には登場人物がいて、彼らは彼らの世界で生きているからです。
そうであるにもかかわらず、主人公に重きをおいた「一点豪華主義」になっている小説が多いのですから、これについては残念といわざるを得ません。
一人称小説での例を出しましたが、三人称小説でも同様です。
主人公を中心に物語が進んでいき、その取り巻きは刺身のツマ程度の存在になってしまうことが多いのです。
書き手が頭を悩ませながら苦労して描いた登場人物が、「引き立て役」でしかないのはもったいないですね。
そうならないためにも、書き手としては何をすれば良いのでしょうか。
この場合、解決するための具体的な方法というよりも、書き手の意識がポイントになります。
小説の語り手に対して、どのようにアプローチさせるかが重要なのです。
物語には、大きな流れがあります。
わかりやすく感じ取れるのは、群像劇として描かれた作品ですね。
「グランドホテル方式」とも呼ばれるこの構築手法は、登場人物それぞれの物語が複合的に重なり合います。
その大きな流れのなかから、ひとまとまりの精神状態や集合的意識を映し出すのです。
主人公を中心に据えた作品であっても、物語の大きな流れが消えるわけではないのです。
かんたんにいえば、書き手がこの大きな流れをないがしろにしなければいい、それだけの話です。
ただし、これは小手先のテクニックというよりも、書き手の意識によるところがとても大きいのです。
書き手が大きな流れを意識しながら、「語り手にどのようにアプローチさせるか」を考えなければならないのです。
これを考えるようになるだけでも、語り手の「主人公びいき」はなくなるでしょう。
主人公を主体とした独善的な展開が改善され、登場人物のキャラクターが引き立つはずです。
俯瞰的に書かれた要素の集合体であれば、作文として扱われることはありません。
小説として、読みごたえのある作品になるでしょう。
もちろん、一点豪華主義が悪いものだとは断言できません。
それが魅力的なものであったならば、読み手は満足するはずです。
しかし「独りよがりのストーリー」になってしまうリスクと隣り合わせであることは、間違いないのです。
これを肝に銘じた上で、作品全体をマネージメントできるようになりましょう。
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