物書きとリベラリズム【書き手としての在り方】
物書きは、リベラルな思想との親和性が高いように思います。
単なる個人的な所感であり、データに一切基づいていません。
けれども、これもまた個人的な所感ですが、同じように感じている人は少なくないと確信しています。
今回は物書きとリベラルの関係について考えながら、着地点を見据えずに書いていきます。
父権的な存在
私たちの生活は、常に大きな存在に覆われています。
あなたが住んでいる「国」もそうですし、そこに敷かれている「社会」もまた大きな存在といえます。
会社や部署など、属している「コミュニティ」が該当する場合もあるでしょうし、上司や家長などの「個人」があてはまる場合もあるでしょう。
ここでは取り急ぎ、その対象を「父権的な存在」としましょう。
程度に差はあれど、私たちの生活は父権的な存在によって支えられているといえます。
しかし、父権的な存在が常に正しいとも限りません。
長い期間にわたって試行錯誤が重ねられた体制であっても、人間が作ったものである以上、「たわみ」や「あそび」のようなものが生じます。
父権的な存在が個人であった場合は、いうまでもなく不完全ですね。
もしも父権的な存在が暴走してしまったとしたら、私たちはどのように対抗すべきでしょうか。
表現によって”抵抗”する
真っ当な選択肢は、体制側に自ら参画することによって「改革」を目指すことです。
絶対におすすめはしませんが、暴力を伴う「革命」もまたそのひとつといえます。
とはいえ多くの人にとっては、改革や革命を実行するなどあまりにも現実味がない話ですね。
個人の能力やおかれている状況はさまざまですから、どちらかの対抗手段を常に選択できるとは限りません。
しかし、打つ手がないわけではありません。
個人の差にかかわらず、すべての人が実行に移すことのできるアプローチもあります。
文章を書くこと、音楽を作ること。
絵を描くこと、映像を制作すること。
そこにメッセージを含ませれば、自分の思いや考えを多くの人に伝えることができます。
つまり、「表現」が父権的な存在に対峙する手立てとなるのです。
父権的な存在を「仮想敵」とみなした場合、表現する者は常に「小さく弱い存在」になります。
そこには「対抗」に至るほどの力が備わっていないのかもしれません。
しかし、いくら当人の頭が悪くても、力が弱くても、自分なりの方法で主義主張を発信し、抵抗することはできますね。
ここでの表現は、父権的な存在に対する「抵抗手段」になり得るのです。
活動そのものがリベラリズムを孕んでいると考えると、作家が「リベラルな立場から政治的な発言をしがち」なのも理解できます。
「書き手としての在り方」を考える
「リベラル」という言葉を使うと、どうしてもイデオロギーに基づいた議論になってしまいます。
が、主軸において考えたいのはあくまでも「書き手としての在り方」です。
書き手は自分の立場を把握し、わきまえた上で、どのように活用していくかが重要なのです。
右でも、左でも、自分の主義主張を発信するには「土俵がどんな状態にあるか」を確認しなければ始まりません。
ここまでご紹介したとおり、個人の思想は別にして、構造的には「リベラル側に寄る」と考えられます。
その上で自分の主張を強化したり、加速させたり、補ったり、あえて潜めたり、取り繕ったりと、さまざまな策を講じるわけですね。
このようなバランス感覚を駆使することで、表現はより説得力をもっていくはずです。
正解のないことを考えているわけですから、異論をもつ人もいるはずです。
私自身、明日には考え方が変わって記事を削除するかもしれないし、今後もずっと変わらないかもしれない。
しかしやはり「リベラリズム」については、書き手にとって安易に切り離すことのできないテーマです。
意見の変化はあるにしても、ずっと向き合っていくことには変わりないでしょう。
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