「文章の自由度」は低い
書きたいことを、自由に書いて良い。
稀に、このような機会が与えられることがあります。
しかし残念ながら、このほとんどは嘘っぱちです。
たとえば、小学生のころの作文を思い浮かべましょう。
「運動会の感想を自由に書きなさい」と、担任の先生から課題を出されたとします。
これといった感想が思い浮かばなかったため、「楽しかった」とだけ書きました。
果たして、この5文字の作文で、先生は納得するでしょうか。
正直な感想であったとしても、おそらく「最低でも半分以上は書きなさい」とか、「1枚超えるまで頑張りなさい」とか、なんらかのノルマが課せられるはずですね。
このように、文章とは、いつのまにか外的な要因に縛られてしまうものなのです。
実は、大人になった今でも、自由に書ける文章などほとんどありません。
WEB系メディアでの執筆では、常に「炎上」と隣り合わせになるため、リテラシーやコンプライアンスに配慮しなければなりません。
小説ですら、商業出版がちらついた途端にマネタイズを意識するでしょう。
つまり、まともに書こうとすると、文章の自由度は低くなるのです。
そもそも「読み手のことを考える」という鉄則を守って執筆すれば、書き手に許される表現はおのずと制限されます。
もちろん、「縛り? そんなの関係ねぇ」と、独自路線を貫くのも良いでしょう。
勢いや熱意をもって執筆することは、非常に大切です。
ただし、さまざまな縛りを受け入れ、その上で表現する努力も、同じくらい大切なことだと考えます。
がんじがらめにされるような土俵に立ちながら、思ったことや考えたことを伝える。
これも、書き手に求められるタスクのひとつでしょう。
書き手に与えられた幅は、狭いかもしれません。
「なんでもあり」という意味での自由ではないにしろ、その幅のなかでは多彩に(多才に)表現することができます。
そのための努力をこなせる書き手が、広く評価されるのではないでしょうか。
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