作家の仕事が本道から外れるとき【不要な仕事】【作家性】

2021年2月6日

 

作家の仕事は書くことです。

書籍の執筆でもいいし、雑誌への寄稿でもいいし、なんならブログの更新でもいい。

雑務も含めればやるべきことはほかにもあるのですが、とにかく書かなければ作家とはいえません。

しかし作家には、あえて本道から外れて別の領域に踏みこんだり、本来必要ないであろう仕事を引き受けたりすることがあります。

今回はこの現象について考えていきます。

 

 

引き受ける必要のない仕事

たとえば、社会問題に言及する作家がいます。

ある意味でワイドショーのコメンテーター的に、時の政権に苦言を呈したり、大きな事件に対して見解を述べたりします。

昨今でいえばセクシャルマイノリティが抱える問題に、作家が寄りそう様子もちらほら目に入ります。

内容やタイミングはきちんと精査するでしょうけれど、積極的に言及しているように見受けられます。

 

いわば別の領域に踏みこんでいるわけですから、外野からすれば本来やるべき仕事ではないように感じられますし、作家自身にも特別なメリットがあるとは思えません。

絶対に賛成できない物言いではありますが「作家のくせに……」「作家であれば作品で……」といった批判を浴びせされることもあるでしょう。

それなのになぜ作家は、本来不要な仕事に自ら着手するのでしょうか。

 

 

損得でいえば「損」でしかない

別の領域に踏みこむ状況は、どう考えても実益には結びつきにくい。

たいして儲からない上に敵は増えるばかり、場合によっては読み手が離れてしまうリスクを抱えるでしょう。

いわば不要な波風を立ててしまうわけですから、むしろ作家本人にとっては「損」でしかないといえます。

 

「得」をしたい作家であれば、いくらでも手を抜くことはできるでしょう。

実際、文章を書き続けていれば執筆はどんどん楽になります。

もちろん「書く」という行為はそれだけで苦しいことですから、厳密には「楽をすること”も”できる」といったところでしょうか。

しかし年数を重ねることで作業効率は向上しますし、テクニックだけで文章を書くことだってできます。

読み手に提示できる文章が増えれば、書き手としての立場も確率され、波風立てずにうまく立ち回ることだって可能です。

引き受ける必要のない仕事に着手する作家は、これらの甘い蜜を捨てているわけです。

 

 

書き手としての使命

日ごろから真剣に表現している人は、あらゆる局面で大きなテーマを見据えています。

社会問題だったり、人間の在り様だったり、人生において重要なあれこれだったり。

作品で表現するのはもちろん、文章以外の方法で伝えたほうが効果的に伝わるのなら、ほかの機会を使って発信するのは自然なことです。

いわば、書き手としての使命によって突き動かされているのだといえます。

 

一度扱ったテーマや関わったトピックを生涯にわたって追い続け、いつしかライフワークになることもあるでしょう。

険しい道のりではありますが、書き手という人種は目の前に横たわる問題を無視できないようです。

このような使命をもって活動する作家は、掛け値なしで尊敬することができます。

たとえ自分とは意見やイデオロギーが違っていたとしても、損得を考えずに「社会を良くしよう」とするその姿勢は素晴らしいものです。

 

 

作家を作家たらしめる

ひとりの作家の仕事を、時系列に並べて追ってみると、かならずしも本道から外れているわけではないと気づくはずです。

作品以外のところで特定のテーマにコミットしている作家は、実はデビュー作からその匂いが漂っていることが多い。

個別に読むとさほど色濃く立ち上がってはいないものの、それぞれの作品で共通したテーマを携えている場合があるのです。

本人が意図しているかどうかは別として、平場で発信した内容が作品と共鳴していたり、細部の表現に滲んでいたりもします。

最新作ではまた違った角度や切り口をもって表現されるから、おもしろい。

 

作品から作家自身の考えをトレースするのはデリケートな試みですが、作品を横断するテーマをもつからこそ個人に「作家性」が付与されるわけです。

一見すると不要な仕事であり、本人からすれば損でしかなかったとしても、作品ないし作家としての仕事に還元されているのです。

つまり、なにかのテーマに執着しつつ厳しい挑戦を続けるからこそ、作家を作家たらしめるのです。

きっと「尊敬される作家」とは、引き受ける必要のない仕事を抱えてる人たちのことを指すのでしょう。

 

コラム

Posted by 赤鬼