「表層にある文体」は作家特有のものではない

2019年7月4日

 

他人のメールやSNSの投稿文を見たとき、「その人らしさ」を感じることがあります。

文章を読んだだけで「誰が書いているのか」を特定できる場合もありますね。

ここから感じ取ったものは、その人特有の「文体」といって間違いないでしょう。

 

しかし小説の執筆においては、必ずしも「書き手の特徴=文体」となるわけではありません。

なぜなら、文体は作中にある要素によって変わることがあるからです。

 

 

わかりやすい例は、小説のジャンルによる違いです。

 

時代小説であれば、かたい文体。

エンターテイメント小説であれば、やわらかい文体。

私小説であれば、シニカルな文体。

ライトノベルでは、くだけた文体……など。

このように、ジャンルによっても文体の印象は変わってくるのです。

 

当然ながら、語り手による違いも無視できません。

三人称小説では、客観性を保つためにかたい文体になることが多いですね、

一人称小説の場合は、主人公の性格によって大きく変わります。

もちろん、性差(男か女か)によっても違いは生じるでしょう。

 

書き手が意図しているかどうかは別として、作中の要素は文体に影響を及ぼすことは確かです。

 

ここでいう「文体」とは、表層から見てとれるものを指しています。

表記や言葉づかいなど、書き手が使い分けられる性質をもつものです。

書き方を熟知している作家であれば、この文体を書き分けることだって造作もないでしょう。

 

執筆をしていると、自分の文体を発現させたくなることがあります。

あるいは、「これは自分の文体だから」と妄信することだってあるでしょう。

文体とはそもそもあいまいな概念であり、とくに小説に関していえば、いともかんたんに変化してしまうものです。

 

つまり、書き手として「書き手特有の文体」にこだわることは悪手だといえます。

もちろん、文体にオリジナリティがにじみ出ることはありますが、それは本来自ら操作できるものではないはずです。

文体という抽象的な概念にとらわれず、まずは書き手自身がのびのびと執筆することが大事です。

 

 

創作

Posted by 赤鬼