【文章力の向上】書き手としての読み方【読む・書くの相関性】
文章力を向上させる目的をもっているのであれば、「読むこと」は「書くこと」と同じくらい重要になります。
もちろん、読書が苦手な作家も少なからず存在します。
しかし、多くの場合で「本を読む行為そのもの」が苦手なのであって、文章を読むことが苦手なわけではありません。
この違いをしっかり区別した上で、今回は「読むこと」について考えていきましょう。
「書く力」と「読む力」には相関性がある
「起承転結」の文型を知っていれば、物語を読んだときに「どの章がどこに対応しているか」がわかるようになります。
物語の “転” で驚かされた読み手としての自分と、「ここで “転” がきたか」と冷静に分析する書き手としての自分が共存するのです。
読むことによって得た分析は、書き手にとっての「学び」となります。
自分が執筆するときの参考として、大いに役立てることができます。
このように、「書く力」と「読む力」には相関性があるのです。
書けるようになると、読めるようになる。
読めるようになると、書けるようになる。
細かな文言は違えど、よく言われていることですね。
ここでの”読める”は、「速く読める」や「読める量が増える」という意味ではありません。
書き手の目線をもって、「書き方を学ぶことができる」という意味です。
考えながら読む
文字の羅列を目で追うだけで、書き方が見えてくることはありません。
書き手として、考えながら読むことが重要です。
「どんな気持ちで書いたのだろう」
「なぜこの言葉を使ったのだろう」
「どうしてこの順序で書いたのだろう」
すると、文章に凝らされた工夫が見えるようになります。
言葉の使い方や組み立て方に感心したり、メタファーやパロディーを盛り込んでいることに気がついたりと、さまざまなことを学ぶことができます。
このとき「作品の裏側にいる作者」を見るのではなく、「作者の使う手法」を見ているわけです。
書き手でなければ、実現できなかった読み方といえます。
書き手の特権でもある
サッカーの経験者でなくても、サッカーの試合を解説することはできます。
「実践すること」と「わかるように伝えること」は使う筋肉が違うため、正しい理論さえもっていれば視聴者を納得させることは可能です。
しかし実体験として具体的な経験を所有していないことから、その解説者が本当の意味で理解しているとはいえません。
「この展開はどうだ」とか「あの蹴り方はこうだ」がいくら理論として正しくても、それは身につまされるかたちでの理解ではないからです。
これは「一度も小説を書いたことのない人が文学作品書評をする状況」に近いものがあります。
もちろん評する立場に資格は必要ないため、思ったことを自由に表現するべきでしょう。
ただし執筆経験がない以上、それは身につまされるかたちでの理解ではないはずです。
一度でも書いたことがあれば、作品の凄みがしっかり伝わります。
そこにプロとアマチュア、出版経験の有無などは関係ありません。
書き手であれば誰でも、書き手としての読み方ができるはずです。
リスペクトをもってその作品を楽しみながら、同時に書き方を学んでいきましょう。
■ 参考
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