【文字の公共性】「話す」と「書く」は違う【発信のプレッシャー】
速く走れるからといって、サッカーの試合で活躍できるとは限りません。
競技が違えば、走る目的も、走り方も、筋肉の使い方が違ってくるからです。
「話す」と「書く」についても同様です。
文章の書き方として、「話すように書く」というセオリーを見聞きしたことがあるはずです。
このセオリーには一定の合理性があるものの、だからといって「話す」を「書く」を混同してはいけません。
たとえおしゃべりが上手であったとしても、文章を書くことが上手だとは限らないのです。
上記と同様、目的も、やり方も、能力の使い方もまったく異なるからです。
消えるか、残るか
「話す」と「書く」には、その性質に根本的な違いがあります。
まずは「話す」について。
誰かが話す内容は、基本的にその場で消えていくものです。
演説を文字起こしするなど可視化される場合はあるものの、ほとんどの会話は形を成すことなく消えていきます。
次は「書く」について。
「書く」ことで表現される内容は、書いた内容はすべて文字として残るものです。
保存しておく期間に差はありますが、その内容が可視化され、定着するのが「書く」という行為です。
もちろん、そこでの優劣や良し悪しを比較したいわけではありません。
発信する立場として、「話す」と「書く」には明確な違いがあることを覚えておきましょう。
プレッシャーに差がある
「おまえはどうしようもないやつだ」
文字として残し、相手に伝えるのであれば、ただの批判にしかなりません。
親しい間柄で声に出しながら伝えるのであれば、笑いになったり、そこから愛情を感じたりもするでしょう。
発信する立場として考えると、「消えるか、残るか」の違いはとてつもなく大きいものだと気づくでしょう。
声のようにすぐに消えていくものなら気楽に発信できますが、文字として残るのであればそうはいきません。
「話し手」と「書き手」の間には、発信するときに背負うプレッシャーに差があるのです。
公共性を意識する
もちろん、気軽に書ける場は存在します。
Twitterに投稿するくだらない内容や、紙に個人的なメモをする程度であれば、気負う必要はないはずですね。
ただし前項にあったように、書いた内容が文字として残ることは間違いありません。
誰かの目に入る可能性がある以上、何かを「書く」ときには公共性を意識すべきです。
つい最近、私がTwitterに投稿した内容に、とあるアカウントから批判される事態が発生しました。
赤鬼のアカウントを開設して以降、初めての出来事です。
批判の内容は取るに足らないものだったのですが、正直なところ嬉しかったです。
お互いの考えを引き出そうと反撃してみたものの、残念ながらそこで止まってしまいました。
「誤解を招く内容を書いたのは私のほうだった」と、今では反省しています。
書き手であれば、他人を納得させる書き方をしなければなりません。
きっと、このときの私は「公共性に対する意識」が薄れていたのだと思います。
文字として残るのであれば、やはり一定の緊張感をもつべきです。
結果がどうであれ「読まれることを考えながら書いた」という事実は、書き手の主張を担保するカギとなります。
なにかを発信するときには、公共性に対する意識をもって書きましょう。
記念と、自戒を込めて。
■ 参考
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