【創作】「語り手」がもつ違和感【存在理由】
小説を書きはじめたとき、「語り手」の存在に戸惑ったことはないでしょうか。
語り手の姿勢といってもいいし、その立ち位置といってもいいし、物語との距離感といってもいい。
「なぜこの語り手がいろいろなことを説明をしているのか」
語り手の立ち回り方について、まるでゲシュタルト崩壊を起こしたようにわからなくなってしまう瞬間です。
これは”小説”という表現形態が抱える、根本的な問題といえます。
今回はこの問題について一緒に考えていきましょう。
小説は違和感を抱えている
物語には主人公が存在していて、「僕」「私」「俺」「あたし」などと名乗りながら、物語のなかで動いていきます。
しかし、冷静に考えてみればおかしな状況です。
主人公は、
● なぜいきなり語りはじめたのか
● どのような目的で語っているのか
● だれに向けて語ろうとしているのか
無粋であるのは重々承知ですが、作中で詳しく説明されることはほとんどありません。
このような根本的なところに疑問が浮ぶのも無理はないはずです。
創作初心者だけでなく、ひょっとすると小説を読む習慣がない人も同じ違和感を覚えるのかもしれませんね。
原因は「語り手」となる主人公の存在理由が明確でないところにあります。
しかし当然ながら、この存在がなければ物語は進めることができなくなってしまいますね。
小説における”ジレンマ”、あるいは”パラドックス”といったらおおげさでしょうか。
少なくとも創作する以上は切り離せない問題であることは間違いなく、多くの小説がこの違和感を抱えながら成立しているわけです。
「書き方」の問題ではない
前項では一人称にフォーカスしましたが、三人称でも同じことがいえます。
私たちがページを開くと、何者かが『A太は~』と、すべてを知っているふうに語りはじめている。
この文面は、だれがなんのために、どのようにして書いているのでしょうか。
正体不明の何者かが前触れもなく語りはじめる状況は、むしろ一人称より不自然に感じられるかもしれませんね。
つまり、この違和感は書き方によってもたらされるものではないのです。
物語を進める「人称」を変えても、違和感をぬぐうことはできません。
ちなみに「視点」の問題でもありません。
一人称の作品で章ごとに登場人物を変えたり、三人称の作品で「単一視点→多視点」と距離感を変えたりしても、根本には「だれがなんのために?」という疑問は残り続けることになります。
違和感を取り除くために
だからこそ書き手は語り手の存在や目的に対して、さまざまな理由づけをします。
もちろんそれは違和感を取り除くための試みで、あらゆる方法を用いて作品と向き合います。
一人称であれば「手記」や「日記」のように“記録する形式”をとったり、「手紙」や「告白」のように“だれかに向ける体(てい)”をとったり。
あるいは作品全体を語り手の“回想”や、過去の“記憶”とすることもありますね。
建前でしかなかったとしても、もっともらしいものをひとつでも用意できれば、「なんのために?」という疑問は取り除くことができます。
特種な例ではありますが、三人称であれば“構成上の都合”から語り手の存在が担保される場合があります。
たとえば「語り手である”私”は登場人物B子であり、この事件の生き残りだ」というように、終盤あたりで語り手の正体を明かすパターンです。
この展開を盛りこむためには、語り手の役割を担う登場人物を用意し、取り急ぎ三人称の形式を採らなければなりません。
前述した一人称での「建前」とは毛色が変わってきますが、このように物語から要請される場合にも、違和感は払拭されるでしょう。
「気にしない」も大切な心がまえ
ここまで考えてきた内容は、いわば“メタ視点”で作品を見つめたときに立ち上がってくるものです。
作品のクオリティと直結する問題ではなく、そう考えると取るに足らない疑問や違和感でしかないのです。
だからこそ書き手にとって、「気にしない」という心がまえは大切です。
書き手としても、すべての作品に語り手の存在理由を設定するわけにはいきません。
実際、理由づけをすることなく書かれた作品はたくさんあります。
語りはじめた動機にまったく触れることのない一人称小説や、”神の視点”として割り切っている三人称小説を見つけることは難しくありません。
「語り手の存在理由」を完全に無視しているわけですが、違和感をぬぐうためにはもっとも潔いアプローチといえます。
流行りのラブソングを聴くとき、「なぜ歌っているんだろう」「どうしてメロディーにのせたんだろう」「楽曲にする必要がどこにあるんだろう」と考える人は少ないはずです。
小説と向き合うときだって、「お約束」「取り決め」「暗黙の了解」などを受け入れてもいいはずです。
じっくりと向き合って解決策を探すことは必要ですが、語り手の存在がもつ違和感は小説という形態そのものが抱える特性ともいえます。
「気にしない」と割り切ることも決して悪いことではなく、作品を成立させるためには大切な心がまえでしょう。
■ 参考
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