言葉の外側で考える

次の文章を読んだときに、何を感じるでしょうか。

「りんごは甘酸っぱい」

りんごを食べた経験のある人は、その味をイメージすることができますね。

これといった疑いをもたないほど、かんたんで、明らかで、わかりやすい内容です。

しかし実際のところ、りんごの品種や銘柄によって「甘さ」と「酸っぱさ」の割合は変わってきます。

香りも、水分量も、歯ごたえも、それぞれのりんごで微妙な違いがあり、味の感じ方は異なって当然なのです。

もっといえば、「いちごの甘酸っぱさ」に対してどのように区別をつけるのでしょうか。

これを踏まえれば、りんごの味を「甘酸っぱい」という一言で片づけてしまうのは適切でないように思えてきます。

物事を言語化することの致命的な欠陥は、ここにあります。

そもそも「感覚」や「概念」や「雰囲気」のような、あいまいなものを言葉で表現すること自体、無理があります。

りんごの味を伝えたいのであれば、自分のりんごを相手に分け与えるのがもっとも手っ取り早いでしょう。

それを言語化し、文章にするのですから、伝えるべき内容の純度が低くなるのも仕方ありません。

逆説的にいえば、100%の純度を保つことが絶対の正義だとすると、言語化は「消極的な選択」であり、「欺瞞的な作業」でもあります。

私たち書き手が普段から取り組んでいることは、まさに言語化です。

「100%で伝えるのは不可能」ということを、書き手は自覚しなければなりません。

ただし、この気づきは、伝えることをあきらめるためのものではありません。

伝える内容の純度を100%に近づける努力をするためにあります。

りんごの味を表現するとき、「りんごは甘酸っぱい」と言語化することで満足してしまう書き手。

このような書き手は、与えられた概念でしか考えることができず、言葉の内側でのみ表現することになります。

いわば、言葉の奴隷です。

実感として経験した本当の味を表現しようとする書き手は、「りんごは甘酸っぱい」という表現は使いません。

類型化された言葉だけでは伝わらないことを知っているため、言葉の外側を見つめながら、ぴったりとおさまる表現を探しています。

あいまいなものに勝負を挑み、言葉を操ろうとしています。

書き手として必要なのは、後者がもっている視点や態度です。

言葉の内側でおさまるのではなく、外側に向けて考えていくことが重要なのです。

もちろん言葉の外側からなされる表現は、かんたんに実践できるものではありません。

「甘酸っぱい」以外でりんごの味を表現する表現するように、そのプロセスは書き手にとって耐えがたい苦しみを伴うことが大前提となります。

これは、書き手の宿命でもあります。

文章力が評価されている作家のなかで、言葉の内側だけで表現している人はいないはずです。

本人に自覚があるかどうかは別として、言葉の外側にある「物事の本質」を見つめながら高い純度を保った表現で伝えるからこそ、それが評価されているのです。

ありきたりな表現に甘んずることなく、言葉の外側を見つめながら物事を考えていきましょう。

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