作品を世の中に開いていく
小説で何かを表現する。
そうすることで救われるのは、他の誰でもなく「自分自身」です。
たとえば、書き手が長い期間、鬱屈した日々を過ごしていたとしましょう。
「小説を書く」という表現方法は、そのすべてを内包することができます。
起こった出来事やそのときの感情、周囲の様子などを文章で紡いでいくことによって、幸せとはいえない日常がひとつの作品として成立するのです。
このときの小説、ひいては作品の存在意義を考えてみましょう。
「自己救済」、あるいは「自己実現」のためのツールといいかえることができます。
悪くいえば、なんらかの救済措置として小説を利用しているわけです。
小説を執筆することで書き手自身が救われるのであれば、それに越したことはないでしょう。
このようなやり方や考え方、価値観を否定するつもりもありません。
しかし、小説家として継続的に活動していくのであれば、もっと大きなところを見据えても良いのではないでしょうか。
具体的には、その作品が社会においてどのように位置づけられるかを考えるのです。
画期的な手法を用いたとか、これまでにない考え方を描いたとか。
アクチュアルな提言をしたとか、その時代における現実を投影したとか。
このような、世の中から定義される作品の意味を考えるのです。
ここでの位置づけや意味づけは、外部からもたらされたものですね。
当然ながら、書き手がそれを考えたところで結論が出ることはないでしょう。
とはいえ、自分の手から離れたところでの作品の存在意義は、そうやすやすと無視できることではありません。
冒頭に挙げた例では、「鬱屈した日々を過ごす書き手」がいました。
報われない日々を物語として描いて、幸運なことに新人賞をとって、デビューできたとしましょう。
自己実現や自己救済が果たされたわけですから、これまでにないほど充実した毎日を送ることができるはずですね。
ただし、世間から認められたその書き手は、二作目、三作目と、書き続けられるでしょうか。
デビューするきっかけとなった「鬱屈とした日々を描いた物語」は、もはや過去のものです。
「小説家になってからの変化」を描くことで、二作目はまだ大丈夫かもしれません。
三作目からは、どんどん雲行きが怪しくなってきます。
もしもこの書き手が「作品の位置づけを見極められる冷静さ」をもっていれば、小説を書けなくなることはないでしょう。
なぜなら、執筆している段階で、作品が世の中に開いていくことを見据えることになるからです。
社会的な意味を考えながら執筆すれば、書き手の伝えたいことは明確になるでしょうし、作品をから放たれるメッセージの質も向上するでしょう。
「出版できるかどうか」「売れるかどうか」を不安に思うことは、致し方ありません。
しかし本来、書き手が優先して考えるべきことではないのです。
長く「書き手」であり続けるためにも、社会における作品の位置づけを見据え、世の中に開いていくことを考えましょう。
■ 参考
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