文章を書くことの意義や使命感、実感する無力と決意
ブログを始めたきっかけは、元々、単なる思いつきでしかなかったように思います。
そもそも「文章の書き方」を論理的・体系的に説明すること自体、「無謀な試み」としかいいようがありません。
書き手よってもそのアプローチは違っていますし、題材や様式によってもそのセオリーは変化するものです。
私自身、「真逆の意見」に直面したときはそれを真っ向から否定することができません。
それにも関わらず文章の書き方を指南することは「驕り(おごり)」であり、我ながら極めてナンセンスだと思っています。
ただし、文章のように「正解も不正解もないテーマ」には深く研究する価値があるのも確かです。
「教えることは学ぶこと」であり、あえて「先生的な立場」から研究することで、何かが見えてくるはずと考えました。
自分のためにメモするような感覚でブログを立ち上げ、文章に関する内容の記事を書き始めたのです。
するとありがたいことに、今ではたくさんの方々に読んでいただけるようになりました。
顔も名前も公開していない「謎まみれのブログ」にもかかわらず、読者に恵まれ、毎日たくさんの方々が訪問してくださっています。
この事実は、私の「社会的な責任」を刺激し、ブログを書く意味や目的も少しずつ色鮮やかになっていきました。
内容に対する賛否はあるにしても、自分自身が思う「もっと良質なもの」を多くの人に届けたいと思うようになったのです。
もちろん、万人受けするような内容を扱っているとは思っていません。
問題を解決するにあたって、決定打となる情報を提示しているとも思っていません。
正解も不正解もないテーマを扱っている以上、私が提供する情報はどこまでいっても「参考程度」にしかならないのです。
さらに、どちらかといえば、多くの内容は「もがき苦しんでいる人」のためにあるような気がしています。
自分のなかにあるいびつな感情を発露することができず、悶々とした日々を過ごす人がいるとして。
文章の書き方を学ぶことで、複雑な感情を「消化・昇華」する効能があると考えているのです。
私が書いた内容は「参考程度」のものでしかなくとも、誰かが何かを気づく「きっかけ」になったり、突破口を見つけ出す「ヒント」になったりすれば、これ以上の幸せはありません。
一方でこのスタンスは、「自分の無力さ」を露呈する要因にもなっています。
私にもっと影響力があれば、周囲の人たちをもっと幸せにできているはずで。
良質な記事を提供していれば、書くことで自己実現したい人が自ら死を選ぶこともないはずで。
幅広い人々に向けてしっかりと道筋を示すことができれば、ガソリンがまかれて火を放たれることもないはずで。
これを考えること自体が驕りであり、自惚れであり、おこがましい発想なのかもしれません。
しかし発信する立場である以上、なんらかの使命感をもってやるべきだと思います。
そしてその使命感に責任をもつべきだと思います。
『文章の鬼』の運営はもちろん、その他の執筆においても、世の中が少しでも良くなることを目指しながら今後も書き続けていきます。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません