「特定の方向性」から形成される物語
今回は、次の記事の内容を発展させてみましょう。
これを実践的に活用していくために、例を交えながら考えてみます。
太宰治の『走れメロス』を思い出しましょう。
主人公のメロスは、悪い王様の城に”無策のまま”殴りこみ、まんまと捕らえられました。
「妹の結婚式があるから」と、友人であるセリヌンティウスを”身代わり”にしました。
無事に結婚式を終えたものの、翌日、なんとメロスは”寝坊”しました。
路(みち)行く人を”押しのけ”、”跳ねとばし”、なんとか間に合ったのです。
この無鉄砲な正義感は、考えなしに褒めるべきでしょうか。
冷静になって考えてみると、疑問に感じる人も多いはずです。
しかしほとんどの人が、メロスのことを「英雄」のように扱っているはずです。
物語には「家族への想い」や「友人との強い絆」、「信じることの尊さ」などが盛り込まれていて、作品自体も「美談」として語られていることが多いです。
ここからの内容は、個人的な憶測でしかありません。
この印象の差は、太宰が仕向けたものではないでしょうか。
彼の有名なエピソードをご紹介しましょう。
● 太宰は、友人である檀一雄と熱海で豪遊し、金が尽きる
● 「菊池寛にお金を借りてくる」といい、太宰はひとり東京に戻る
● いくら待っても姿を現さないことに痺れを切らした檀は、宿の人と東京に向かう
● 檀が東京に着くと、太宰は井伏鱒二と呑気に将棋を打っていた
● その有様を檀に問い詰められた太宰は、「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」と言った
つまり、メロスは友人のもとに戻りましたが、太宰は戻りませんでした。
『走れメロス』には原典があるものの、このような経験をもつ太宰が「待たせる身」を悪い印象で書くとは思えないのです。
太宰ほどの文豪であれば、個人の主義・主張を反映させながら狙いどおりに印象づけることはかんたんでしょう。
もしも太宰が、メロスのことを自分の写像として捉えていたのなら……
この「開き直り」を、説得力のあるかたちで描くことはできたはずです。
もちろん、この個人的な憶測が正しいかどうかはわかりません
信憑性には欠けるものの、「方法論」として考えれば十分に可能です。
小説であれば、登場人物の心情や、そこから映しだされる情景を細かく描写することができます。
いわゆる「都合の良い展開」や「説得力をもたせるための要素」も、盛り込むことができます。
この前提をもって、ある方角に向かって描かれた文章が積み重なればどうなるでしょう。
少なくとも物語のなかでは、一般的な概念を崩壊させることもできてしまうのです。
読み手の捉え方が変わるのは、登場人物の印象だけではありません。
モノや場所、状況に対する見方ですらも、書き手の思惑どおりに変えることができるでしょう。
特定の方向性をもって書き進めることで、物語はじわじわと形成されていきます。
まるで川の濁流を流れる小石のように、その環境に見合った形が整えられていくのです。
このプロセスを体感することもまた、創作の醍醐味ではないでしょうか。
■ 参考
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