表現とリベラリズム【自由を求める】【政治的イデオロギーと分けて考える】
作家やミュージシャンのなかには、「リベラル的」「左翼的」なポジションをとっている人が多く見られます。
政治的な思想がベースになっている場合も少なくないのですが、すべての表現者がかならずしも左に寄っているわけではありません。
今回は「表現におけるリベラリズム」について、構造的な要因から考えてみます。
政治的なイデオロギーは別にして、新しいものが見えてくるはずです。
表現の原動力
そもそも「表現」とは、目の前にある壁を乗り越えようとしたり、壊そうとしたりする試みともいえます。
広く知られている概念を使いまわしたところで、新しい価値観を生み出すことはできません。
凝り固まった考えでは、多くの人が見過ごしている物事に言及することもできないでしょう。
だからこそ表現する立場の人には、自由な精神性が必要といえます。
柔軟に発想するためでもあるのですが、それだけではありません。
たとえば、不自由な状況におかれていると感じたときには「自由」を求めますね。
その尊い精神性もまた、なにかを表現するときの原動力になります。
良き表現を実現するためには、あらゆる場面で「自由」がキーワードになるのです。
表現に発生するリベラリズム
保守的なスタンスから創造性や独創性が生まれるでしょうか。
既存の価値基準におもねるように表現されたものが、受け手の心を揺さぶるとは思えません。
つまり「個人の表現」がなされるとき、そこには多少なりとも「リベラリズム」が発生しているのです。
「自由」にもとづいて表現されるからこそ、既存のものをくつがえすことができるのです。
文章を書く場合、このことはとくに意識すべきです。
「使い古しのテーマ」は読み手に受け入れられませんし、「紋切り型」や「手垢のついた」と形容される文章は避けられます。
そう考えると、物書きは潜在的にリベラルなのだといえます。
程度に差はあれど、物書きである以上は皆表現と向き合い、そして戦っているのです。
活動に「自由」が内在している
「リベラル」「保守」という言葉を随所で使いましたが、これはあくまでも「表現するときの姿勢」を言語化したものです。
冒頭でも触れたように、いわゆる”政治的なイデオロギー”とは切りはなして考えてください。
たとえば「保守思想の物書き」は問題なく成立しますし、逆に「左翼思想の物書き」が皆リベラルというわけでもありません。
保守的な思想をもつ書き手を否定するつもりはありませんし、誰かを左翼側に扇動したいわけではありません。
政治的なイデオロギーとからめると構造が複雑になってしまうので、ここは一旦別次元のものとして考えましょう。
書き手ないし表現する立場として、活動のどこかで「自由」が内在していることが重要です。
抑圧された状態から自由を追い求めるのであれば、常にリベラリズムを意識することになるでしょう。
柔軟な発想を目指すのであれば、むしろ無意識のうちに「リベラルな磁場」が発生しているはずです。
あらゆるところに内在する自由が、「まだ人目に触れていないなにか」を生み出すことになるでしょう。
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