物語から求められるものを理解する
創作は自由です。
書き手の頭にあることを、思ったままに表現することができます。
ただし何事においても、自由には責任が伴います。
物語の世界を描いていく上で、書き手が果たさなければならない「責任」とは何でしょうか。
たとえば、『悟空』と『ルフィ』と『アンパンマン』と『ドラえもん』のようなキャラクターが共存する作品を書くとしましょう。
小説は自由ですから、権利関係さえクリアすれば、このような作品があっても良いはずですね。
魅力的なキャラクターを登場させるのも、おもしろい舞台を設定するのも、決して悪いことではありません。
しかし、書き手はこの物語を展開しながら、作品として形成していき、完結させなければなりません。
色の濃いキャラクターを複数登場させ、上手い具合に絡ませることができるのでしょうか。
読み手を引きこむドラマをもたらし、落としどころを見極められるでしょうか。
さらにいえば、その物語は果たしてひとつの作品として成立するのでしょうか。
つまり、書き手が負うべき大きな責任のひとつは、作品としての体裁を保つことなのです。
どれほど魅力的な発想をもっていても、 それが”読まれるかたち” にまとまっていなければ、物語の世界を読み手と共有することはできません。
注意すべきポイントは、「発想の押し売り」にならないように書くことです。
小説は、書き手のなかにある突飛なイメージを具現化できる手段ですから、ついつい書きたいことを書いてしまいます。
本来書き手は、すべての設定や展開に意味をもたせるべきで、細かいことをいえば、たった一文字でも不要なものを書かないよう心がけるべきです。
自らの発想を小説に活かしたいのであれば、それに応じた書き方をしなければならないのは当然のことでしょう。
“『悟空』と『ルフィ』と『アンパンマン』と『ドラえもん』のようなキャラクターが共存する作品”を書くのであれば、相応の物語を考えなければなりません。
それぞれのキャラクターの存在意義や、そこから生み出されるドラマ、物語の終焉をイメージしていなければ、すべてが散らかったままの状態になってしまいます。
このとき必要とされているのは、ある種の「論理的な組み立て」であり、いわば物語から求められるものです。
自分の発想にこだわることで、これを無視してはならないのです。
どんな物語でも、なんとなく展開しながらヤマやオチを作れば、小説らしく装うことはできるでしょう。
ただし、そのような姿勢での執筆はあまりにも無責任といえます。
重要なのは、自分の発想が展開していくなかで、物語から求められるものを理解することです。
これを念頭において書き進めれば、物語が帰結したときに立派な作品となっているでしょう。
■ 参考
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