「セリフの内容」に逃げてはならない
地の文であれば、当然ながら、文章作法に則って書きすすめる必要があります。
会話文を書くとなると、事情が少しばかり変わってくるのです。
小説における会話文は「生の会話を書き起こしたもの」ですね。
もちろん会話文として書かれたとはいえ、それは文章化されたものでしかありません。
上に挙げた記事に書いてあるとおり、本当の意味での「リアル感」を出すことは原理的に不可能です。
つまり、会話文はくだけた書き方が許される文章なのです。
言いかえれば、文章作法から一時的に逃れられるわけですね。
地の文 : その程度の出来事だったとは、思ってもみなかった。
会話文 : 「なーんだ、そんなことだったのか」
同じような内容を伝えるにしても、地の文と会話文とでは大きな差が有るのです。
書き手からすれば、これはとても楽チンですね。
「正しい作法をもって良い文章を書こう」と、神経を研ぎすませなくてもいいのですから。
ただし、会話文の性質に甘んじてはいけません。
注意すべきは、セリフの垂れ流しです。
何万文字もの内容を創造していると、書き手自身も疲弊してきます。
地の文で伝えたほうがベターな内容でも、登場人物のセリフに混入させたくなることがあります。
そうすれば、面倒なことに頭を悩ませる必要がないのですから、ついつい必要以上にセリフが長くなってしまうのです。
仮におもしろさを感じさせる内容であれば、読み手も飽きずにその文字を追うでしょう。
しかし、それが「逃げた結果」として垂れ流したセリフであれば、十中八九、つまらない内容になります。
長いセリフは、何かしらの明確な意図をもって書くべきです。
言うまでもなく、セリフの性質に甘えながら書いた内容が、作品に良い影響をもたらすとは思えません。
辛くなったときに踏ん張ることができるか、これがポイントのひとつですね。
作品における「その文の意味」を考えながら、集中力を切らさず執筆するよう心がけましょう。
■ 参考
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