「表層にある文体」は作家特有のものではない
他人のメールやSNSの投稿文を見たとき、「その人らしさ」を感じることがあります。
文章を読んだだけで「誰が書いているのか」を特定できる場合もありますね。
ここから感じ取ったものは、その人特有の「文体」といって間違いないでしょう。
しかし小説の執筆においては、必ずしも「書き手の特徴=文体」となるわけではありません。
なぜなら、文体は作中にある要素によって変わることがあるからです。
わかりやすい例は、小説のジャンルによる違いです。
時代小説であれば、かたい文体。
エンターテイメント小説であれば、やわらかい文体。
私小説であれば、シニカルな文体。
ライトノベルでは、くだけた文体……など。
このように、ジャンルによっても文体の印象は変わってくるのです。
当然ながら、語り手による違いも無視できません。
三人称小説では、客観性を保つためにかたい文体になることが多いですね、
一人称小説の場合は、主人公の性格によって大きく変わります。
もちろん、性差(男か女か)によっても違いは生じるでしょう。
書き手が意図しているかどうかは別として、作中の要素は文体に影響を及ぼすことは確かです。
ここでいう「文体」とは、表層から見てとれるものを指しています。
表記や言葉づかいなど、書き手が使い分けられる性質をもつものです。
書き方を熟知している作家であれば、この文体を書き分けることだって造作もないでしょう。
執筆をしていると、自分の文体を発現させたくなることがあります。
あるいは、「これは自分の文体だから」と妄信することだってあるでしょう。
文体とはそもそもあいまいな概念であり、とくに小説に関していえば、いともかんたんに変化してしまうものです。
つまり、書き手として「書き手特有の文体」にこだわることは悪手だといえます。
もちろん、文体にオリジナリティがにじみ出ることはありますが、それは本来自ら操作できるものではないはずです。
文体という抽象的な概念にとらわれず、まずは書き手自身がのびのびと執筆することが大事です。
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